海軍士官の衣・食・住


 海軍には『海軍初級士官心得』というものがあります。
 その名のとおり、少尉中尉といった若い士官たち向けに、海軍生活の心得をまとめたものです。最近では、立派な上司と言われたいサラリーマンの皆さん向けのビジネス書なんかで引用されることも多いみたいです。
 全文についてはGoogleあたりの検索エンジンで調べてもらうとして、ちょっと抜粋すると大体こんな感じです。

・熱と意気を持ち純真であれ
・進んで難事にあたり、常に縁の下の力持ちとなれ
・感情に訴えるような部下指導は避けよ
・上陸して飲食や宿泊するときは、一流の店をえらべ
・報告はマメにおこなえ

 一流の店はともかく、なんだか新入社員研修で偉い人が言いそうな言葉です。実際、あの手の話はここからネタを持ってきてるのかもしれません。
 なかなか含蓄の深い言葉もあります。

・頭より船を早く走らすな
(自分でコントロールできないことはしない)
・多少の貯え身だしなみ
(借金はするな)
・ユーモアは一服の清涼剤
(コミュニケーションのコツ)
・もう一歩、捧げ銃、帽振れ
(トイレの使用法、男性向け)
・靴のかかとをよく磨け
(見えないところをきちんとしよう)

 ……こういった規範に裏打ちされていた海軍さんの日常生活は、一体どんなものだったんでしょうか……。


・衣
 海軍士官は、制服を自費でそろえる必要がありました。
 軍でお仕事をするのに最低限必要なのは、第1種(冬服)、第2種(夏服)、礼服、作業衣と、それに付随する靴とか短剣(海軍には陸軍のように長剣を持ち歩く習慣はありません)とか諸々の小道具です。これらは兵士、下士官では軍から支給されていましたが、士官になると自分で買わなくてはなりませんでした。
 多分これは海軍本家の英国から来た決まりだと思われますが、士官のほとんどが貴族の子弟という英国と違って一般庶民が多い日本では、上級士官はともかく少尉中尉といったランクではなかなか懐に厳しいものでした。もっとも、一方ではお金持ちでお洒落な人たちが、上等な布を使ったり英国あたりで作ったりしていたのも確かですが。
 これは昭和の資料ですが、なりたての海軍少尉の基本月給は大体70円ちょっとでした。実際にはこれに航海手当てやらなにやらがつくので手取りはもう少し多くなると思いますが、同時期のホワイトカラーの平均月給が92円ですからかなり低いといえます。

 なお、明治や大正時代、東京あたりでは軍服姿の海軍士官を見ることは意外と少なかったそうです。これは「士官が勤務の帰りに制服で魚屋や八百屋で買い物をしたりするのはみっともない」という見地から、町中ではなるべく私服を着るように決められていたためです。ですから、特に陸上勤務の海軍士官は、朝背広を着て勤務先に出勤、中で制服に着替えて勤務し、帰りにはまた背広に着替えて家に帰るなんてことをやっていました。
 ちなみに、同じくみっともないという理由から、軍服姿の時は傘さすの禁止という規則がありました。ここまで来るとすでに気の毒な世界です。

 そういえば、イラストやマンガ、アニメなどに出てくる士官の服装について、良く見る間違いをひとつ。
 特に偉そうな軍人が、右肩から服の合わせ目にかけて、赤とか金色とかの網紐状の飾りをつけていることがあります。あれは実は参謀飾緒といって、参謀である目印なんですね。もともとは記録用の鉛筆をなくさないように肩から紐でつっていたのが始まりだという話ですが、そういう代物ですから当然ながら参謀以外の人はつけていません。逆に言えば、参謀でもないのにそんなものをぶらさげている図を描いたりすれば、軍のことを知らないというのが一発で分かってしまうわけです。


・食
 海軍の食事がおいしいというのは有名な話です。なにしろ「士官の外食は一流の店でないと駄目」と言いきるくらいですから、食事に対する考えかたも陸軍とは相当違っていました。質量共に豊富で甘いものなどの嗜好品も充実しており、海上勤務になると士官は段々太ってきたそうです。
 ただし、やっぱりというか、これも自費でした。
 正確には、毎月給与の中から1食あたりいくらという形で決められた金額を払い、それで食事を用意させるという形になっていました。これもまた少尉中尉あたりの懐を寂しくする原因だったのは言うまでもありません。
 海上勤務の士官の食事は、3食ともかなり凝ったものが出されました。朝はいわゆる伝統系の和食、昼はテーブルマナーの練習も兼ねて略式ながらもフルコース、夜は主に和食で刺身とか入港先のご当地名産品とか、とにかくバラエティに富み、当時の日本の平均の遙か上をいっていました(あくまでも士官の基準です。兵士や下士官はこれにくらべると遙かに質素な食事でした)。これに艦隊司令官の食事ともなるとBGMに軍楽隊のオーケストラ演奏なんてのもついていたそうですが、これは余談。
 そんな料理を毎日作るために、海軍の主計科には調理を専門に担当する人たちがいました。料理の基本ひととおりはもちろん、おいしいご飯を炊くコツから栄養学に至るまで、そこらのコックもびっくりの技術と知識を身につけ腕をふるっていたのです。

 こんな海上勤務にくらべると、陸上勤務の士官たちの食事は割と普通だったようです。
 外食こそ「一流の店」ですが、家で食べる分には誰が見ているわけでもありません。秋山真之と広瀬武夫は東京勤務でで借家に同居していたとき、面倒臭いという理由でお手伝いさんにパンを山のように買わせておき、そればっかり毎日食べてたそうです。さすがにここまで極端なのはそうそういなかったでしょうが、海の上と陸の上、どっちの食事が気楽だったかは士官にとっては微妙なところだったのかもしれません。

 
・住
 海軍士官の家も、陸上では一般の人と変わりがあるわけではありません。独身なら実家や下宿、結婚していたら家族と共に、それぞれ住んでいました。
 違ってくるのはやっぱり海上勤務の時です。
 この時代、日本海軍は艦のほとんどを、設計段階からヨーロッパ等西洋に任せていました。当然、居住設備も西洋のものが使われます。つまり、艦に乗り組む海軍さんは、兵士から士官まで否応なく西洋風の生活をしなくてはならなかったのです。
 この中で、人々に最も大きな影響を与えたのがトイレでした。当時の艦ではほぼ例外なく、便器が和式ではなく洋式だったのです。なにしろ海軍に入るまで便器に洋式和式があるなんて聞いたこともないような人たちが大半でしたから、これには皆さん苦しんだようで、便秘になる、使い方が分からず上に乗ってしゃがんでする、等々、様々な話が残っています。

 海軍士官がきれい好き、というより、ごく早いうちから身の回りの整理整頓を叩き込まれるのは良く知られていることですが、これは主に艦内での生活を意識してのことです。
 なにしろ狭い場所に数百人から数千人……しかも男ばっか……が暮らすわけですから、ひとりひとりが意識して自分の周囲をきちんとしないと大変なことになるのは明らかです。そういう意味では、服装とかについての決まりがやたらうるさいのも、単にカッコ良く見せようというのではなく、人がひしめきあっている艦内で不潔だったりだらしなかったりしていてはまわりが迷惑するという一種の「生活の知恵」なのです。
































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