ゆき乃の手記 十

神無月---多津の来た夜



 この日、お父様が帰ってきたのはずいぶん遅くになってからでした。
「お帰りなさいお父様、今日は遅かっ……」
 玄関に出た私は、お父様の後ろに薄汚れた女郎がひとり、縮こまるように立っているのを見て仰天しました。
「お、お父様……?!」
「身請けしてきた」
 短くそう言って、お父様は女郎のほうへあごをしゃくりました。
「とりあえず、飯を食わせてやるようばあやに言いなさい。あと風呂もな……娘のゆき乃だ」
 終わりのひとことは女郎に向けてのものでした。女郎は一瞬眼を上げてほつれた髪ごしに私を見ましたが、多分私の姿に驚いたんでしょう、びくりとしてまたうつむいてしまいました。
「……多津、と申します……」
 少し間をおいて、下を見たまま、女郎は消え入るような声を出しました。
「この度は、旦那様のご厚情をいただきまして……」
「余計な挨拶はせんでいい」
 幾分いらだたしげにお父様は多津の言葉を遮り「では頼んだぞ」とだけ言い残してさっさと上がってしまいました。ようやく口がきけるようになった私はあわててその後を追おうとしましたが、玄関に木偶のようにつっ立ったままの多津を見て思い直し、ばあやを呼びました。そして、同じように仰天するばあやに手早く事情を説明すると、後を任せてお父様の部屋へ向かったのでした。


「ゆき乃、帯は?」
 部屋をのぞいた私に、着替えをしながらお父様がまず言ったのはこれでした。私は黙って箪笥から新しい帯を出してお父様に渡すと、そのまま畳に座りました。私が機嫌を悪くしているのが分かったんでしょう。お父様は少し苦笑いをしました。
「そんなふくれっ面をしなさんな。別に馴染みという訳じゃない……足抜けして捕まったところに出くわしたのだよ」
「……足抜けを?」
 あんな気弱そうなのに、と言おうとして、私は言葉を引っ込めました。
「うむ、これもなにかの縁だろうと思ってな。もっとも、持ち合わせがなかったから明日また行かなくてはならないが」
「追っていたのは渡世人衆でしょう? 良くお金もなしに連れ帰ることを許してもらえましたね」
 やっぱり陸軍将校にはやくざたちも一目置くのかしら、と私は感心したんですが、それを聞いたお父様はなんだかきまり悪げな顔になりました。
「う……む、まあな。代わりといってはなんだが、軍刀をかたに置いてきたのでな」
「なんですって?!」
「そんな声を出すもんじゃない。大丈夫だ、出がけに寄ってかたをつけるから誰にもばれんよ」
「…………」
 ……殿方のうわさの中では、哀れな女郎に惚れて云々という話を時折耳にすることはあります。たまたま拾った異人の赤ん坊(つまり私)を、まわりの反対を押し切って娘にしたお父様ですから、情も涙もない渡世人に追われる足抜け女郎を目の当たりにすれば、お金があろうがなかろうがなんとしても助けようとするのは不思議ではありません。
 ですけど……行きずりの女郎を身請けして連れ帰るのは、異人の捨て子を娘にするのとは少し訳が違う気がします。
 私は気を落ち着けると、改めてお父様に尋ねました。
「……それで、あの人を妾になさるんですか?」
「馬鹿を言うな。妾など持つつもりはないよ」
 お父様はすぐに答え、笑って私の頭をなでました。
「そうだな、下働きにでも使えばいい。ばあやもそろそろ年だし、もうひとりくらい女中がいてもいいだろう?」
「それはそうですけど……ばあやがなんと言うかしら」
 ばあやはああ見えて、意外と気位の高いところがあります。女郎上がりをこの家に入れるのにいい顔をするとは思えません。
「まあ、ばあやにはお父様から話をしておこう。とにかく、多津と言ったか、あれはうちに置くことにする。お前もそのつもりでな」
 お父様はきっぱりと言い、とりあえず、この日の話はそれでおしまいになりました。


 翌日、帰ってきたお父様は(ちゃんと腰に軍刀があるのを見て、私はほっとしました)、多津を呼ぶと1枚の証文を渡しました。
「…………」
 私のお古を着て髪を束髪にし、ゆうべとはうって変わって化粧っ気のなくなった多津は、まばたきもせず憑かれたように証文をしばらく見つめていました。と、不意にその眼から涙がほろほろとこぼれ落ちたのには、私もお父様も驚きました。
 流れる涙をぬぐおうともせずに、多津は証文を丁寧にたたむとふところへしまいました。そして、黙ったまま、畳に手をついて深々とお父様に頭を下げました。
「これからお前には、うちで働いてもらおうと思う」
 そんな多津に照れたのか、ぶっきらぼうにお父様は言いました。
「見てのとおり親ひとり子ひとりの家だし、面倒なしきたりもないから気楽に勤められるだろう……くにはどこだね?」
「……下総の、結城藩でございます……」
 頭を下げた形のまま、昨日と変わらない消え入るような調子で多津は答えました。あまり小さな声なので少し乗り出さないと聞こえないほどでした。
「結城藩か。親は町人かなにかか? 百姓ではないな」
「はい、士族で……御一新の後は商いをしておりました……」
 それからうながされるままにぽつぽつと語るところによれば、多津の家は下総結城の下級士族とのことでした。維新の後、家禄の奉還金を元手に商売を始めましたが、なにしろ武士の商売ですからうまくゆくわけもなくたちまち借金がかさみ、3年ほど前にいちばん年上の娘だった多津が身売りをしたんだそうです。
「……そうか、家は士族か」
 そんな身の上話を聞いた後、お父様は困った風に腕を組みました。
「武士の娘を下働きなどにするわけにはいかんなあ」
 士族といっても女郎だったくらいですから、別にとやかく言うほどのことではないと思うんですが、江戸の世を見ているお父様には、自分と同じ旧武士の娘を女中にするのははばかりがあるようです。
 多津を前にお父様はしばらく考えこんでいましたが……やがて思いがけないことを言い出しました。
「ではこうしよう。その借金をいくらか仁科が肩代わりするから、お前は家に帰るといい」
「……お父様?!」
 そこまでなさるなんて……と私は思わず口をはさみかけましたが、お父様がちらりとこちらを見たので、危ういところで控えました。
 実は仁科の家は、あまたの華族様と比べても決して引けを取らない資産家です。日々の暮らしはどちらかといえば慎ましいですが、それはお父様が贅沢を好まないからで、多分その気になれば多津の家を救うくらいのお金は簡単に出すことはできるでしょう。
 ……そういえば、広瀬中尉は私との縁談を、最初「財産や出世目当てだと思われるのは不本意だから」と断ってきたそうです。ところが、逆にお父様はそんな中尉を今時気骨のある男だとすっかり気に入ってしまい、財産もやらないし出世もさせないよう中牟田の家に話をするから、娘をもらってくれと頼んだのだそうです。なんとも頓珍漢なその話を後で聞いて私は思わず笑ってしまったんですが……そんな風なかただったからこそ、私もお嫁に行く気になったのかもしれません。
 ……それはさておき。
 お父様のその言葉を聞いた多津の顔色がさっと変わったのに私は気がつきました。喜んだわけではない証拠に、ひざできちんとそろえられた手が、白くなるほど握りしめられています。
「いいえ……いいえ、いいえ!」
 思いがけなくはっきりと、多津は首をふりました。
「旦那様のご厚情、誠にありがたく思います。ですけど……肩代わりしていただいても一時の話。また借金がかさめば、きっとどこかへ売られてしまいます……どうか、どうかくにへは帰さないでくださいまし……このとおり、このとおりお願いいたします……」
「…………」
 それはなんとも悲痛な懇願でした。畳に額をすりつけるようにして頼む多津に、居心地の悪くなった私とお父様は思わず顔を見合わせました。
「……まあ、お前がそこまで言うならかまわないが……」
 やがて、いささか歯切れ悪くお父様が言いました。
「気が変わったらいつでも言ってきなさい。わたしにできることなら力になるから」
「はい……ありがとうございます……」
 ほっとしたように、多津はもういちどお父様に頭を下げました。そして、よろしくお願いしますと次に私のほうへ頭を下げました。
「さて、それでは多津、ばあやのところへ行って何をするかを聞きなさい。ついでに茶を淹れるよう言ってくれ」
「……はい、かしこまりました」
 また元のとおりの小さな声でそう返事をすると多津は立ちあがり、ひっそりと出ていきました。


 多津が出ていくと、まるで重苦しい呪縛が解けたような気がしました。私とお父様はどちらからともなくため息をつき、楽にしようと座り直しました。
「あんなに戻るのを嫌がるなんて……一体多津の家はどういう家なんでしょう?」
「さあなあ」
 私が尋ねると、お父様は短く答えて片手で軽く首筋のあたりを叩きました。そしてふとその手を止めると、もの思わしげに口を開きました。
「ただ、お父様も士族だから分かるんだが……」
「はい?」
「農民は幕府が倒れようが明示政府になろうがと暮らしが変わる訳ではないし、華族は勅令で財産を保証されている……多分、維新でいちばん割を食ったのは士族だろうな。多津もそんな家の娘のひとりなんだろうよ」
 男ならまだ、頭さえよければ陸士や海兵に入って身を立てることもできるんだが、女は……そこまででお父様は口をつぐみ、黙って首をふりました。
 私は、もういちどため息をつきました。
「……もしかすると……私もあんな風になっていたかもしれないんですねぇ……」
 この時、私は少なからず、多津に……多津が見せた思いがけない激しさにあてられてしまっていたんだと思います。
 もちろん、私は選んで仁科の家に拾われたわけではありません。ですが、いにしえから幕府に仕えた武士の娘が女郎に身を落とし、どこの馬の骨とも知れない異人の拾われっ子が蝶よ花よとなに不自由なく暮らしている……口には出さずとも、このことにきっと多津は理不尽なものを感じたに違いない。そんな風にふと私は思ったのでした。もし拾われたのがお父様でなかったら、今頃、吉原あたりの格子見世に顔を並べていたのは自分かしれないのですから……。
「そういう考えかたをするもんじゃない、ゆき乃」
 お父様の厳しい言葉に、私ははっとしました。眼を上げると、お父様は口を引き結び、まっすぐに私を見ていました。
「確かに多津は気の毒な身の上かもしれんが、だからといってお前が引け目を感じるのはお門違いというものだぞ。第一、引け目を感じたとてなんになる? お前が多津と代わってやれるのか?」
「それは……」
「考えても詮ないことをあれこれ思い悩むのは無益どころか有害だぞ」
「……はい」
 不注意なことを言ってしまった、私はそんな思いでうつむきました。すると、お父様の声が少し優しくなりました。
「今の身分が分不相応でないかとお前が気にするのは、まあ仕方ないことだとお父様は思う。だがな、それに縛られてはいけないよ。いきさつはどうあれ、お前が今持っているものはお前のものだ。恥じることなどなにもない。だから、胸をはって堂々としていなさい」
「はい……お父様」
 そうでなければ、逆にお父様と仁科の家に対して失礼になります。私はうなずき、もう二度とこんなことは言うまいと心に決めました。

 谷口ジローの『坊ちゃんの時代 秋の舞姫』(双葉社)を読んで思いついた作品です。どうもゆき乃の家は想像される規模に比べて使用人が少なすぎるというのに気付いたので、こんな感じで増やしてみました。
『秋の舞姫』はその名のとおり、森鴎外の舞姫ことエリス・バイゲルトが日本にやってきて様々な(実在の)人物と関わり、経験した小さな冒険を描いたコミックです。何故読んだかというと、広瀬武夫も出てるからです。てへ。