ゆき乃の手記 十一

霜月---憑き神



 最近、家のまわりを変な男がうろついている――ばあやがそう言い出したのは、多津が来てから1週間ほど後のことでした。
「変な男?」
「そうなんでございますよ、昨日も裏の生け垣のあたりをうろうろしていて。声をかけたらさっと逃げちまいましたけどね、あれは絶対覗いてたんだと思いますよ」
 縫い物をする私にお茶を出しながら、ばあやは腹立たしげにため息をつきました。少し離れたところでは、多津がこちらは布団皮の繕いをしています。最初ばあやは「労咳やなんかを持っているかもしれないのに、女郎上がりに旦那様やお嬢様の物を触らせるなんて」と反対したんですが、雑巾がけや厠の掃除ばかりでは可哀想だし(同じ理由で、ばあやが台所に多津を入れないからです)、この際仕立てでもきちんと仕込んでおけば、後々うちから出してもお針子かなにかでやっていけるだろうからと説き伏せたのでした。
「どんな男なの?」
「まあそれがお嬢様、このあたりには不似合いなみすぼらしい男なんですよ」
 わたしが尋ねると、待ってましたとばかりにばあやはまくしたて始めました。
「しかも性根の悪そうな顔で。あれが怪しからぬことを考えてないと言うなら、ばあやはお暇を出していただいてももよろしゅうございますよ」
「見た目で人を判断してはいけないとお父様はおっしゃってるわよ、ばあや」
「ばあやくらいの年になれば、見かけで人の良し悪しくらいは分かるものでございますよ。あれは絶対悪人の面です。おおかた、盗みでもしようと様子をうかがってたんでしょうよ」
 ばあやには、からかうとすぐむきになる癖があります。この時もばあやはきっと胸をはって私の言葉に言い返しました。丁度縫い物に飽きてきたことでもあるし、もうちょっとなにか言おうかしらと思いましたが、不意にそこで多津が小さく声をあげたので、私は口をつぐんでそちらを見やりました。
「どうしたの? 多津」
「……あ、も、申し訳ございません……指を針で……」
「見せてごらんなさい。ばあや、薬箱を」
「いえ……大丈夫です。少し血が出ただけですから……」
 あわてた様子で指を口に含む多津を見て、ばあやはなにか言いたそうな顔をしました。が、さすがに私の前で言うわけにもいかなかったらしく、ひとつお辞儀をするとそのまま台所へ引っ込んでしまいまいした。そんなばあやに私は内心ため息をつきながらも、縫い物の続きにとりかかりました。


 その夜のことでした。
 喉が乾いて眼が覚めた私は、起き出すと台所に向かいました。土間に降りて水瓶から柄杓に水を汲もうとした時、勝手口が細く開いているのに気が付き、ばあやがこんな不用心をするなんて珍しいと思いながらそちらに近づきました。
 と、外から聞こえてくる低い話し声に、私は身を固くしました。
「……じゃねえか。なんで今頃そんなこと言い出すんだ」
「でも……ここの旦那様は助けてくれたのよ。追われている私を見て、なにも言わずにぽんとお金を出してくれて……」
 その声は多津と、誰か知らない若い男のものでした。外をのぞくと、少しだけ開いた裏門の前に立つ多津の後ろ姿が眼に入りました。寝間着ではなく、まるで昼間のようにきちんと着物を着込んだその姿は、あらかじめ示し合わせての逢い引きだということを物語っています。
「おい多津、てめえ、俺と約束したこと忘れたんじゃないだろうな」
 姿の見えない男の声の乱暴さに私は驚きました。およそ堅気とは思えないその話し方に、もしかすると昼間にばあやが言っていたのはこの男かしら、とふと思い、下級とはいえ士族の娘らしく行儀も物腰もきちんとした多津が、なんでこんな男と親しいのだろうと不思議になりました。
「一緒に暮らしたいって言ったのはてめえのほうだぜ、多津。だから俺は危ねえのを承知で、足抜けの手伝いまでしてやったんだ。それをむざむざ捕まりやがった挙げ句今更消えろたあどういうこった?」
「消えろだなんて……私は行けないからひとりで逃げてって言っているのよ。これを……これを売れば、大阪なりどこへなり逃げるお金ができるでしょう?」
 私が覗いているなどつゆ知らない多津は、ふところからなにやら小さな物を取り出しました。と、男の片手がぬっとのびてそれをひったくっていきました。
「駄目だな、こんな櫛ひとつじゃたかが知れてるぜ……そういや、ここの娘は毛唐だったな。なんか舶来の珍しいもんでも持ってるんじゃねえのか?」
「そんな……お願いだから恩を仇で返すようなことさせないでちょうだい」
「じゃあ、俺への恩はどうなるんだ、多津? てめえのお陰で俺は一生渡世人に追われる身なんだぜ」
「…………」
 ……ふわりと私の足元に闇がわだかまり、黒い猫になりました。額にも眼を持つその猫は、私の脚にひとつ身体をこすりつけると、戸の隙間からするりと外へ出ていきました。そして待つ程のこともなく、うわっという男の悲鳴が耳に届きました。
「どうしたの、矢太郎さん?!」
「畜生、猫が……おどかしやがって!」
「大きな声を出さないで! 聞かれたりでもしたら……」
「誰かいるの?」
 すかさず私は声をかけ、わざとがたがた音をさせながら勝手口を開けました。外に出て裏門を眺めると、男の気配はすでに消え、月の光の陰に多津が黒々とたたずんているのだけが見えました。
「多津、こんな夜更けになにをやっているの? 話していたのは誰?」
「あ……いえ……」
 私が尋ねると、多津はうろたえたように口ごもりました。門の外のほうへ顔を向け、そして振り切るように扉を閉めると小走りにこちらに戻ってきます。
「怪しい人影を見たものですから……声をかけておりました……」
「なんだったの?」
「それが……すぐに逃げて……」
「そう」
 あえて多くは聞かず、私はそのままきびすを返しました。多津のほっとした気配を背中に感じながら2、3歩家のほうへ戻りかけ、ふと振り返って低く言いました。
「……今度来たら、あの男を警察に突き出すわよ、多津」
「……!」
 雷にうたれたように立ちつくす多津を尻目に、私はさっさと家に入ってしまいました。


 翌日。
 持っている中でいちばん地味な着物を選んだ私は、多津に教えられた長屋に出かけました。
 あの後、多津が告白したところによれば、家のまわりをうろついていたのは矢太郎という多津の間夫でした。ふたりで暮らす約束をして足抜けしたものの、多津だけが逃げ損ねて捕まってしまったのだそうです。丁度そこへやってきたのがうちのお父様で、あっさり多津を身請けして連れ帰ってしまったので、ふたりにとっては話がややこしくなったのでした。
「逃げるのに必要だから金を出せ、とあの人は言うんです……」
 私を前に、泣きながら多津は言いました。
「俺のことが心配じゃないのか、この家から盗めばいいだろうと……そんなこと……そんなことできるわけがないのに……」
「…………」
 私は困ってしまいました。
 多分、それまで矢太郎が好きだったのは多津ではなく、多津が女郎として稼ぐお金だったのでしょう。こういうことに詳しいわけではありませんが、好いた相手を思う情があるならば、あんな強請るようなことが平気で言えるわけはありません。
 ただ問題は……多津のほうが本気でそんな矢太郎に惚れているらしいということでした。下手にあの男になにかすれば、今度はこちらに恨みを持たないとも限りません。おどおどしているように見えて、多津に意外と激しいところがあるのは、ここへ来た時の有様で分かっています。
「……多津」
 ため息をつきながら、私は言いました。
「殿方を好きになるというのがどういうことか、それは私も承知しているつもりよ。だから、お前が夜中にこっそりその男と話していたのを責めるつもりはありません」
「……はい」
 消え入りそうな風情で多津はうなずきました。私はもうひとつため息をつき、続けました。
「でも、矢太郎が言っていたことを聞き捨てにはできないわ。もしあの男がお前に盗みをさせようとしているなら、仁科の娘として私はなんとかしなくてはならないの。分かるわね?」
「…………」
 しばし……多津は息を飲んで私を見つめました。そして不意にがばと私の前にひれ伏し、膝に取りすがりました。
「どうか……どうかあの人を警察には突き出さないでくださいまし!」
 涙をぼろぼろ流しながら、多津は訴えるのでした。
「悪い人ではないんです。悪い人では……ただ、貧しくて頼る者もいなくて、つい……お願いですから見逃してやってくださいまし、お嬢様!」
「多津、落ちついて。皆が起きるわ」
 多津を膝から引き剥がし、少し後ろに下がって私は応じました。
「そこまで言うなら、警察には話さないでおきます。でも……あの男が二度とここに現れないようにする必要はあるわ。でないとお前はこの先ずっと強請られるでしょうし、私やお父様も安心して暮らせません……そのあたりは納得してもらえるわね?」
 すっかりうなだれてしまった多津は、ただ小さくこくりとうなずくだけでした。私はそんな多津が少し気の毒になり、この人にとっては身請けされてうちへ来るのと、足抜けに成功して矢太郎とふたりで暮らすのと、どっちがこの先幸せなのだろうとふと思いました。
 ……その後、私は多津をなだめすかして矢太郎の家を聞き出し、このことはお父様には黙っているよう重々言い含めて、自分の部屋へ帰したのでした……。
「……ここね」
 口の中でつぶやくと、私は立ち止まってあたりを見回しました。
 実を言えば、多津から聞かずとも、矢太郎の家は分かっていました。昨日呼んだ猫には、矢太郎をおどかすだけでなく後をつけていくように言ってあります。その気配をたどれば家くらいは簡単に見つけることができるのでした。一応聞いておいたのは、もし万一矢太郎が家に帰らなかった時を考えてのことです。
 そこは今にも崩れそうな古長屋でした。材木とさえ呼べないような板きれを継ぎ合わせて作った棟々が、くっつきあうようにしてようやく建っています。晴れ続きだというのにじっとりぬかるんだ地べたは、とても踏み込めないような異様なにおいを放っていました。
 どうしようかと私は迷い、あたりを見回しました。と、物陰から数人の子供が、おびえたような興味津々なようなといった顔でこちらをじっと見つめているのが眼に入りました。
「ちょっといらっしゃいな」
 私は財布を取り出し、子供たちを手招きしました。
「ここに住んでる矢太郎っていう人を呼んできてくれないかしら? 呼んできてくれた子にはお駄賃5銭よ」
 子供たちは息をつめ、今にも逃げ出しそうにしながら私の様子をうかがっていました。が、私が財布から硬貨を出してひらひらさせるととたんにわっと物陰から飛び出し、先を争うようにしてひとつの戸の中になだれこみました。待つほどもなく、ひとりの若い男が怒りながら、子供たちに引きずりだされるようにして姿を現わしました。
「おい、なんだってんだてめえら! 放せ、ぶん殴るぞ!」
「私が呼んだのよ、矢太郎さん」
 私が静かに言うと、矢太郎はぎくりとしてこちらを向きました。その間に、私はわいわい騒いで駄賃をせがむ子供たちに5銭ずつ払い、手をふって向こうへ行かせました。
「……多津が告げ口しやがったな!」
「いいえ、私が問いつめたんです……少し話がしたいの、よろしくて?」
 吐き出すように弥太郎が言うのにわざと華族様が使うような言葉で答えて、歩くようにと私は促しました。矢太郎は一瞬、逃げたそうなそぶりであたりを見回しましたが、長屋の中からいくつもの顔がのぞいているのに気づくと、異人とはいえ娘ひとりにおじけづいたと思われるのも癪に障るのか、渋々歩き始めました。
 長屋から少し離れた所で立ち止まり、人気がないのを確認すると私は男に向き直りました。
「……はっきり言うわ。いくら払えば、多津と切れてくれるかしら?」
「…………」
 矢太郎は一瞬、きょとんとした顔をしました。それからその顔がにやりと笑みをうかべて歪み、やがて大声で笑い出します。
「娘にそんな使いをさせるたあ、あんたの親父もたいしたもんだなあ、お嬢さん」
「お父様は関係ないわ。これは私の一存です」
 むっとしたのを押さえきれずに私は言い返しました。
「ゆうべ、あなたが多津を強請っているのを見たのよ。使用人を守るのは主人の義務ですもの。さあ、いくらほしいの? おっしゃい」
「多津と俺との仲は2年前からなんだ。それを横からかっさらいやがって、士族様だか将校様だか知らねえけどな、金くれてやるから切れろったってはいそうですかって言えるかってんだよ」
「じゃあ家に来てちゃんとそう話せばいいでしょう。もともと行きずりの縁なのだし、そういうことならお父様だってむげにはなさらないわ。それをなんでこそこそかぎまわったり強請ったりするの」
「かぎまわったのは、多津が本当にあそこにいるのか確かめるためさ。それにあれは強請りなんかじゃねえよ。もっとも、お育ちのいい異人のお嬢さんには強請りに聞こえるのかもしれねえけどな」
 けっと言ってつばを吐く矢太郎を前に、私はため息をついて気を落ち着けました。この男の言い様には、どこか人をいらいらさせるものがあります。私と話す時ですらこうなんですから、多津が相手の時はもっとひどいんでしょう。一体全体何故多津がこんな男に惚れたのか、私は不思議でなりませんでした。
 矢太郎はそんな私を見て、またにやりと笑いました。なにかをほのめかすような、妙に訳知り顔のその笑いに、私は嫌な気分になりました。
「……なにか言いたいことがありそうね?」
「へっへ、別に……あんたも大変だなって思っただけだよ」
「なにを?」
「結局、いちばん多津を追い出したがってるのはあんたなんだろ? なにしろ奴に子でもできりゃあ、困るのはあんたなんだからな、異人のお嬢さん。育ての親に義理立てしてるんだろうけどよ、気取って下手な取り繕いはやめたほうがいいぜ」
「?」
 この男はなにを言っているのかしら、と私は首をかしげ、そしてその意味に思い至るとかっと頭に血がのぼりました。
 つまり、矢太郎はお父様が多津を妾にしたと思いこんでいるのです。
 そしてもし、お父様と多津との間に子供ができれば、その子が仁科の家と財産を継ぐことになり、それまで娘としてちやほやされていた私は放り出されることになるだろうと、それを私が実は危ぶんでいるのだと矢太郎はほのめかしているのでした。
 ……これまでも私は、異人であること、捨て子であることについてまわりから大なり小なり言われることはありました。その中のいくつかには、財産目当てというのもあったような気がします。いちいち覚えてはいませんが。
 ですが、こんな悪党風情にまで痛くもない腹を探られる筋合いはありません。
「……悪いけど、お前の考えは見当をはずれていてよ」
 私が出した声は、我ながらどきっとするほど冷たいものでした。
 それを合図にしたように、どこからともなくゆうべの黒猫が現れました。その猫は甘えるように私の脚に身体をこすりつけてくるくると回ると、ひょいと肩に跳びあがってくわえていた櫛を手の中に落としました。
 多津が持ち出して矢太郎に渡したお父様の奥様の櫛を、私はそっと懐にしまいました。
「どうせ私はそのうちお嫁に行く身です。お父様が多津を妾にしようと子ができようと、その子が家を継ごうと、それは私の知ったことではないわ」
 私が口を閉じると、肩の上で猫がにゃあと鳴きました。その猫にみっつ眼があるのにようやく気づいたのか、矢太郎が息を飲みました。
「ば、化け物……」
 矢太郎が逃げ出そうとするより早く猫はさっと飛び降り、矢太郎の影の中に吸い込まれるように消えました。
「……ひぃっ!」
 自分の影の中にみっつの猫の眼が開き、じわりと見上げるのを眼にして、矢太郎が悲鳴を上げました。地べたにぺたりと腰を抜かし、影から逃れようとするように手だけで後ろへ這いずっていこうとします。
「これから先、お前が仁科の家や多津に近づこうとすれば、影にひそんだその妖に喰い殺されると心得なさい」
 私は静かにそう言い、財布を出すと矢太郎の膝に放り込みました。
「5円入っています。それだけあれば当分暮らしには困らないでしょう。これを持ってどこへなりと行くがいいわ。そして、二度と出てこないで」
 返事を待たずに私はきびすを返し、矢太郎をひとり残してその場を離れました。してやったりという気分と、怒りにまかせて力を使ったという後悔を、半分ずつ噛みしめながら。


 それっきり、怪しい男が家のまわりをうろつくことはなくなりました。
 時々、多津は誰かを待つ眼をして外を見ていることがありましたが、矢太郎のことについて口にすることは二度とありませんでした……。

『多津が来た夜』の続編です。最初はひとつの話で書くつもりだったんですが、長くなったので分けました。
 しかし本当に長いな……。