長月---お蔵の居候

「ああ、ああ、なんてことだろうねもう!」
朝、台所に入った私がまず聞いたのは、ばあやのなんとも腹立たしげな声でした。
「どうしたのばあや、朝っぱらから」
「お嬢様、見てくださいましよこの有様を!」
ばあやが示したほうを見て、私は思わず声をあげてしまいました。食い散らかされたお芋やらもろこしやら、ひっくり返った味噌の壺やら、土間じゅうに転がったそんなものを、多津がせっせと拾っています。
「なんなのかしら、鼠?」
「鼠はここまで悪さはしませんよ。おおかた野良犬か狸か……全く、戸締まりはちゃんとしといたはずなんですけどねえ」
嘆くばあやに続いて土間に降りると、私は足元のお芋のかけらを拾い上げてみました。
野良犬か狸とばあやは言いましたが、囓った跡に残っていたのは、動物というには少しおかしな気配でした。確かに、歯形は動物に似ていると言えないこともありませんが……。
「お嬢様は触らないでくださいましよ」
私のしたことに全然気付いていないばあやが、ほうきとちりとりを手にしながらそう言いました。
「野良の動物の食べ残しなんて、なんの疫病みがついてるか知れたもんじゃございませんからね」
「そんな、大袈裟よばあや」
「大袈裟じゃありませんよ。ばあやの知り合いに、鼠がかじった大根を食べて大層ひどい死に方をした者が……あれまあ言ってるそばからもう! すぐに手を洗ってくださいな! 駄目です、瓶の水なんかじゃなくちゃんと井戸で!」
「はあい」
ばあやに追い出されるようにして外に出ながら、私はさりげなくあたりを見回しました。にゃおん、という小さな声に振り返ると、植え込みの陰に三つ目の黒猫が座っています。私と眼があうと、猫は心得顔でにゃあと鳴き、すっと姿を消しました。
その夜のことです。
気がつくと、猫が顔をそっと触っていました。私が身を起こすと猫は小さく一声鳴き、くるりときびすを返して廊下に出ていきました。
猫が行き着いた先はやっぱり台所でした。いますよとでも言いたげに振り返ってしっぽをぴんと立てる猫を抱き上げ、私は息を殺して中をのぞきこみました。
窓から差す月明りのおかげで、意外と物ははっきりと見えました。土間の真ん中にうずくまるようにして、人とも動物ともつかない小さなものがもぞもぞと動いています。かりかり、ぴちゃぴちゃという音から察するに、なにかを食べているようです。
……5尺はあろうかという真っ黒な腕がにゅっと宙に現れ、あっという間にそれをわしづかみにしました。きゅうっ! という悲鳴をそれはあげると、それは短い足でじたばたともがき始めました。
「悪さをするのは誰?」
言いながら私は台所に入り、それの前に立ちました。毛むくじゃらで寸詰まりの、なんとも不格好なその物の怪は、腕につかまれたまま口をぱくぱくさせています。
「た、た、た、助けてくれ、助けてくだされ。これこの通り、この通りじゃ」
「うちの食べ物を食い散らかしたのはお前ね?」
「そ、そ、そうじゃ。でもひもじくて仕方なく、仕方なくなんじゃ。決して悪さをしようと思ったわけではないんじゃ。だから助けてくだされ、見逃してくだされ」
なんとも哀れっぽい仕草で身をよじる物の怪を、私はとっくりと眺めました。一体なんの物の怪なのか分かりませんが、どうやらそれほど悪いものではなさそうです。
「……二度とこういうことをしないと誓うなら、逃がしてあげても良くてよ」
私は言いました。物の怪はきょとんとし、次いでぶんぶんと首をふりました。
「そ、それは無理じゃ、う、飢え死にしてしまう」
「それじゃあ、このまま退治しかないのだけど」
私の言葉に合わせるように、抱いていた三つ目の猫がひょいと土間に飛び降りました。物の怪に近付くと、いささかわざとらしふんふんとにおいをかぎ始めます。物の怪はひゃあっとまた悲鳴をあげ、必死になって足をばたばたさせました。
「こ、こ、この妖をなんとかしてくだされ! これは嫌いじゃ、苦手じゃ、ひゃあ〜!」
「二度と来ないと誓える?」
「わ、わしとて結界の中など居たいとは思わぬ。じゃども、外へ出たらば伴天連四郎に狩られてしまう。もう大勢が狩られてしもた。お願いじゃ、お願いじゃ、居させてくだされ、い、い、居させてくだされ〜」
半泣きで訴える物の怪の鼻先で、猫が退屈そうに大あくびをしました。間近に真っ赤な口と鋭い牙を見た物の怪は、とうとうきゅっと言って気絶してしまいました。
……私はなんだかばかばかしくなって、板の間に座ると猫を呼びました。猫が肩に飛び乗ってくると同時に宙からのびる腕も消えて、物の怪は地べたにくたっと倒れこみました。が、待つほどもなくはっとと飛び起き、あたりをきょろきょろと見回します。
「……そうね、考えないでもないわ」
そんな物の怪に向かって、私は口を開きました。
「ここに居たいならこの家を荒らさないと約束すること。もし荒らさずにはいられないというなら、出ていって頂戴。お前が選べるのはどっちかよ」
物の怪はぎょっとしてしばらく私を見上げていましたが、やがて、必死の形相で何度もうなずきました。
「しない、しない、絶対しない。こうなれば約束する。絶対、絶対、約束じゃ」
「どっちを?」
「この家は荒らさぬ、絶対に荒らさぬ。だから居させておくれ。飢えるより狩られるほうが恐い」
「分かったわ」
うちにはひとつ、土蔵があります。あそこなら普段人は入らないし、居ついているものもとりあえずはいないようですから、小さな物の怪が隠れて住むにはもってこいでしょう。
私がそう言うと、物の怪の顔がぱっと明るくなりました。
「うむ、うむ、もってこいじゃ。あそこに住まわしてくれるのか? 良いのか? 本当に?」
「悪さをしないと誓うならばよ。なにかしたらすぐに追い出しますからね」
「誓う、誓う。わしの笠荻の名をもって誓うぞ。ああ、ありがたや。嬉しいのう」
見かけの割にずいぶんみやびな名前だわ、と思いながら、私は笠萩の誓いにうなずきました。そして、いそいそと行きかける笠荻を呼び止めると、その前にここで食い散らかした物を片づけるように言い渡し、猫を見張りに残すと部屋に戻って寝直したのでした。
それっきり、台所が荒らされることもなく何日かが過ぎました。
「……最近、土蔵がなんだか騒がしいような気がしないかね?」
突然、朝餉の席でお父様に問いかけられ、危うく私は箸を取り落とすところでした。
「騒がしいって……あんなところでなにが騒ぐっていうんですか?」
聞き返す声がいくらか上ずっているのに気がついて、私はあわてて口を閉じました。が、幸いお父様には分からなかったようです。
「うむ、それはそうなんだが……どう言ったらいいものか……」
お父様は口ごもり、どこかもどかしげに箸をぱちんと鳴らしました。そして私に眼を向けると、少しあやふやな調子で尋ねました。
「お前はなにも感じないかね?」
「え、ええ。特には」
実は感じないどころではなかったのですが、私としてはこう答えるしかありませんでした。笠萩のことなど、言えるわけがありません。
「……そうか、お前がなんでもないのなら、お父様の気のせいなんだろうな」
ご自分を納得させるようにお父様はうなずくと、変なことを言ったなと照れ臭そうな笑みを見せました。私は笑い返しながらも何となく居心地悪く思い、これは様子を見に行かなくてはと考えました。
この間の感じでは、笠萩の気配はそうたいしたものではありませんでした。あの程度ならまず誰も気付かないでしょうし、だから土蔵に住んでもいいと言ったんですが……確かにここ何日かの間に、土蔵の中の気配は急に大きくなっています。笠萩がなんの物の怪か知りませんが、一体中でなにをやっているのか、私はともかくお父様までが気付くとなれば、ただごとではありません。もしうちにとって良くないものならば、なんと言われようと今度こそ追い出す必要があります。
そう決めた私は、お父様が出かけるのを待って土蔵に向かいました。
扉の前に立つと、お父様の言う「騒がしさ」は耳を押さえたいほどのものになります。もちろん、音ではありませんから耳をふさいでも消えるものではありませんが。
「…………」
私はひとつ息を吸うと、鍵をはずして重たい扉を開けました。
そして、危うく気絶するところでした。
床から棚から天井から、大小様々な笠萩が……いえ、笠荻にそっくりな物の怪がうじゃうじゃとひしめいていたからです。その数は十や二十ではありません。百か二百か、ありとあらゆる隙間に入り込んだ同じ顔の物の怪たちは、一斉にぴたりと動きを止めると私を見やりました。
「い、一体なんなのこれは!」
「おお、おお、おぬしか」
悲鳴じみた私の声を聞きつけて、ひとりの笠荻があたりをかきわけかきわけ出てきました。どうやらもどきではなく、本人のようです。
「見てのとおり、住まわせてもらっておるぞ。これだけいるとちと狭いが、居候させてもらっている身で贅沢も言えぬからの」
「冗談じゃないわ! 一体この騒ぎはなに? どこから湧いて出たの!」
「湧いて出たとは失敬な。これは皆わしの一族じゃ」
「一族?!」
「いかにも。あそこにいるのが連れ合いの和砂、あっちが子供の折砂と笠霜、そこで寝ているのが連れ合いの姉の和由良……」
笠荻が重々しく指を差す度に、同じ顔、同じ姿をした物の怪が、あちらでぴょこり、こちらでぴょこりと頭を下げてゆきます。それはなんというか、なんだか頭が痛くなるような光景でした。
「笠荻……」
物の怪蔵と化した土蔵の中から眼をそらし、私はなんとか癇癪をこらえました。
「確かにここに住んでもいいとは言ったけど、一族郎党引き連れて来いなんて言ってなくてよ」
「なにを言うか、一族あってのわし、わしあっての一族じゃ。ひとりでいても意味がないわい」
笠荻は涼しい顔で言ってのけました。周囲からざわざわと同意のつぶやきが起こるのを、私はひとにらみして黙らせました。
「こんなに大勢集まったものだから、気配が大きくなってお父様に気付かれそうになっているのよ。お父様は普通の人なんだから、家に物の怪がいるなんて分かってごらんなさい。どんな騒ぎになることか」
「じゃども、おぬしはここに住んでも良いというたではないか」
「一族を連れて転がりこんで良いなんて言ってないわ!」
「一族あってのわしなのじゃ。一族なくしてわしもなし。皆共に在るのは当然じゃい」
「…………」
これでは堂々巡りです。
確かに、物の怪に人の道理を説いても無駄なことではあるんですが……一体どう話せば笠荻に分かってもらえるのか、私は途方に暮れてしまいました。
「……ととさま」
その時、唐突に奥からか細い声をあげたのは、笠荻の半分ほどの大きさの物の怪でした。確か笠荻の子供と言われたような。名前は折砂だったか笠霜だったか……と考えていると、その物の怪はとんでもないことを言い出したのです。
「ここの主さまにととさまが直々にお願いしてみてはいかがでしょう」
「?!」
「おお、そうじゃな!」
ぎょっとする私をよそに、笠荻がぽんと手を叩きました。
「人の世には窮鼠懐に入らば猫を噛むという言葉もあるし、こそこそ身を隠そうとするからかえってうろんなものに思われるのじゃ。直々にお願いに上がって、わしらが本当に困っていることをお話すれば、主さまも否やとは言うまい」
「絶対に駄目!」
私は慌てました。そんなことをされたら、それこそ大騒ぎです。
「お父様は軍人なのよ! このご時世に、お国に仕える者が物の怪をかくまっておけるわけないでしょう!」
「いいや、主さまなら大丈夫じゃ」
一体なんの自信があるのか、笠荻は悠然とそう言ってのけました。そんな笠荻を前に、私は困り果ててしまいました。
「と、とにかく、お父様には私からお願いしてみるから。お前たちはこのまま、なるべく静かにしていて頂戴」
「しかしのう」
「ここは私の家よ。決して悪いようにはしないわ」
とにかくここはまかせて。と、私は渋る笠荻たちをなだめました。笠荻たちもなんとか納得したようで、それ以上とんでもないことは言い出しませんでしたから、私はやれやれと胸をなでおろし、土蔵を後にしました。
ところが……
私が思っていたよりも、実は笠荻は頑固者だったのです。
突然、お父様が私の部屋へとやってきたのは、笠荻たちと話をしてから2日目の夜でした。
ああ約束はしたものの、一体どういう風にお父様に切り出せばいいものか、実のところ私は考えあぐねていました。私と違って、妖だの物の怪だのとは縁のないお父様に、まさかありのままを話すわけにもいきません。
「ゆき乃、ちょっといいかね?」
「はい?」
私は書いていた手紙を片づけると、お父様のほうへ向き直りました。なんだか妙な顔をしたお父様は、私の前に一旦あぐらをかいて座りましたが、すぐに思い直したように正座になりました。そして咳払いをひとつして腕を組み、またほどくと膝の上にきちんと両手をそろえます。
「……?」
なんだか落ち着きのないその様子に、どうしたのかしらと私は首をかしげました。そんな私の顔を見たお父様は、もうひとつ咳払いをすると言いにくそうに口を開きました。
「今しがた、お父様のところにだな、その、妙な……物の怪……というのか? が現れたのだが……」
その言葉だけで、なにがあったのか大体察しはつきました。それが顔に出たのでしょう。お父様はやれやれと言いたげなため息をつくと、片手で顔をこすりました。
「……約束したんだな? その……笠荻……とかいう連中をかくまってやると」
「ごめんなさい。狩られると言うから……まさか一族郎党引き連れてくるとは思わなかったんです……」
「…………」
お父様は困った顔で黙り込み、なにか考えていました。きっと、これがまわりに知れた時、ご自分の立場がどうなるかを思い悩んでいるのでしょう。
「……まあ、約束してしまったものは仕方がない」
しばらくして、またため息をつくとお父様は言いました。
「お前に約束を破るようなことはさせたくないし、あの……物の怪たちはうちに置いておこう。何かあったら、その時にどうするか考えればいい」
「ごめんなさい……」
それでお父様が被るかもしれない災難を考えたら、いっそ勝手なことをしおってと怒られたいような気持ちでした。
「本当にごめんなさい……軽はずみでした」
ただただあやまるしかない私に、お父様は「気にするな」と笑顔を見せて立ち上がりました。そして部屋を出ていきかけて、ふと思い出したように振り返りました。
「そういえば、あの……笠荻たちは、なにか食べるのかね?」
「え? ええ、多分、野菜とかを……」
「そうか……ばあやに言って、あれたちが必要にするだけ野菜を買い置くようにしておきなさい。飢え死にされるのも寝覚めが悪いだろう」
「はい、分かりました」
その野菜代は自分で払おうと私は決めました。もちろん、私のお小遣いはお父様からいただくのですから、お金の出所としては結局同じなのかもしれませんが……せめてそのくらいしなくては気が済まなく思えたのでした。
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