皐月---君忘るるや、思へるや

鎮守府の門のところで待っていると、弥生ちゃんが息を切らせて走ってきました。いつものおっとりした風情はどこへやら、服のすそをひるがえし、帽子はどこかへ飛ばしてしまっています。その姿を見た時、私は心が重くなるのを感じました。
「ゆき乃……ゆき乃、どうだったの? 兄さんには会えて? なんと言っていたの? いつ帰ってくるの?」
ここへ来るまでにいろいろと説明は考えていたはずなのに、いざこうやってせきこむように質問されると、どういうわけかひとことも思い出せません。
「……弥生ちゃん、やっぱり隼人さんだったわ」
我ながらなんて間抜けなことを、と思いながら、私はようやく言いました。
「その……いろいろあって、今は助かったことを秘密にしてなくてはならないんで……もう少しだけ待っててくれって……」
「ああ!」
こんなにうれしそうな顔をする弥生ちゃんを見たのは、本当に久しぶりでした。ひとつぴょんと飛び上がると、弥生ちゃんはそのまま私の手を取ってぴょんぴょんと子供のように跳ね回りました。
「良かったわ! 本当に良かった! ありがとうゆき乃! もうこんなに心配させて兄さんったら。帰ってきたら見てらっしゃい!」
「…………」
弥生ちゃんに振り回されながら、私はただ笑ってみせるのが精一杯でした。
嘘をついているわけではありません……きっと、多分、ことが終わったら隼人さんは帰ってくることでしょう。
でも、たとえ帰ってきたとしても……もう隼人さんは私たちが知っている隼人さんではないということを、はしゃぐ弥生ちゃんに私はどうしても話すことができませんでした。
「……おつらいことでござんすねえ」
仕事に戻る弥生ちゃんを見送っている私に、声をかけてきた人がありました。
「月音さん、いらしてたんですか?」
美純月音さんは、ここのところなにかと弥生ちゃんを心にかけてくれます。吉原の花魁というので最初はあまりいい気持ちはしませんでしたが、気のしっかりした人で親身になってくれるので、今では時々相談などにのってもらっています。なんでこんなに親切にしてくれるのかとなにかの折に尋ねたところ「女がふしあわせになるのを黙って見ていられないたちなでござんすよ」と笑うのでした。
「ええ、この子がお船を見たいと言いますのでなあ……これ、なにをもじもじしてるの。お嬢さんにご挨拶おし」
月音さんは後ろにいる女の子を前に出そうとしましたが、月音さんの袖にしがみつくようにしてこちらを見ていたその子は、私の青い瞳におびえたのでしょう、眼が合うと一層引っ込んで隠れてしまいました。
「これ壬花! 失礼をおしでない」
「いいんですよ、慣れてますから……びいどろの眼だからびっくりしたのね、壬花ちゃん」
娘さんか妹さんか、どっちかしらと思いながら私はとりなしました。月音さんはすみませんねぇとひとつあやまってから、ついと弥生ちゃんが去っていったほうを眺めました。
「弥生はんもですが、ほんとのことを言えないゆき乃はんもさぞおつらいでござんしょう」
「……いえ」
同情のにじみ出る言葉に、私は首をふりました。
「弥生ちゃんにこれ以上、気苦労をかけたくありませんから」
あの場の様子からすると、もし私たちのすることが気に入らなければ、隼人さんは一緒にいた士官たちをけしかけたことでしょう。もしかすると、広瀬中尉の怪我だけでことがおさまったのは幸いだったのかもしれないんです。隼人さんがそんな人に……理想のためと称して親しかった人を傷つけるような人間になってしまったなどと知ったら、弥生ちゃんはまた悶々とするに決まっています。
それに……普通の人には手刀で物を切り裂くなどという芸当はできません。
「どうされてしまわれたんでしょうなあ、中牟田はんは……」
思いにふける私の耳に、月音さんのつぶやきが入ってきました。私は何気なくそちらをに眼を向けて、つと胸をつかれました。
珍しげに私を見上げる壬花ちゃんの頭をなでながら、月音さんはぼんやりとどこかを見つめていました。その眼はとても悲しげで、なにかを追い求めるような、見る者をはっとさせずにはいられない風でした。
「……月音さん?」
私の言葉に、月音さんは我に返りました。そして私が見ているのに気付くとちょっと慌てた顔になりました。
「あれ、すみませんなあ、ぼうっとしてしまって……なんぞおっしゃりましたか、ゆき乃はん」
「……いえ」
……隼人さんが吉原通いをしていたという話を聞いたことはありませんが(女には普通そんなこと言わないものですし)、もしかすると、月音さんは隼人さんと親しかったのかもしれない、と私は思いました。本当は心配でたまらないのだけど、立場が立場なのでそのことを明かせないでいるのかもしれないと。
「さて、そろそろおいとまいたします……壬花、行きますえ。お嬢さんにさよならをお言い」
私の内心を知ってか知らずか、月音さんはそそくさと私に向かってお辞儀をすると、壬花ちゃんをうながして去っていきました。その後ろ姿を見ながら、私はため息をつかずにはいられませんでした。
皆がこんなに切ない思いをしているのを、隼人さんは知っているんでしょうか。
知っていてなお、それを無視するというのなら……そんなことでしか成就できない理想や大望に価値などあるんでしょうか。
いくら考えても、それはよくわかりませんでした。
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