文月---ああ、われ人と求めゆきて

ぱたぱたと硝子を叩く音に、私はぼんやりと本から顔をあげました。大粒の雨が窓に当たっているのを見て、とうとう降ってきたのねと思いながらまた本へ眼を戻し……庭の洗濯物のことを思い出すととびあがりました。
「なんてこと……ああもう、ばあやに怒られちゃう……!」
さっき空が暗くなった時、薄々降りそうだなという気はしていたのでした。が、まだ大丈夫と思っているうちに、本に夢中になってそのまま忘れてしまったのです。買い物に出ているばあやのしかめっ面を思い浮かべながら庭へ飛び出した私は、泡を食って洗濯物を縁側に放り込んでいました。
と、眼の隅になにか動くものが見え、私は反射的に振り向きました。そして、驚きのあまり抱えていた洗濯物を取り落としそうになりながら、1歩前へ踏み出しました。
「……琉さん?!」
丁度その時雨足が激しくなり、大慌てで私は腕の中の洗濯物を縁側に放り入れると硝子窓をぴしゃりと閉めました。そして、生け垣の向こうに傘もささずに立つ人影に駆け寄りました。
「琉さん、まあ、本物の琉さん?!」
強くなる雨と急に暗くなっていく空の下、水の落ちる軍帽の下からこちらを見やったのは、1月に『畝傍』と一緒に行方知れずになった神山琉さんでした。
「本当に琉さんなの? まあ嬉しい! 一体どうしたの、『畝傍』はどうなって……ああ、そんなことどうでもいいわ。とにかく入ってくださいな。びしょぬれじゃありませんか」
びしょぬれになっているのは私も同じでしたが、そんなことより、この薄暗い中でも琉さんの顔色がひどく悪いのが気になりました。なにしろあれから半年以上立つうえ、この間には同じ『畝傍』に乗っていた隼人さんがプロメテウスの手先になり果てているのを目の当たりにしたばかりです。まだ兵学校を卒業したばかりの琉さんがどうしているのか、なにかひどいことになってはいないか、ずっと棘でもささったように気になっていたのでした。
「…………」
でも、雨に叩かれながら、琉さんはまくしたてる私をじっと見ているだけでした。その顔はまるで能面のようで、なまじ美男子なのが一層えも言い難いものが漂っています。家にいたときから琉さんは物静かで近づきづらいところのあるかたでしたが、今はなんだか鬼気迫るとでもいったようなものがその風情からは感じられました。
私はなんとなく、不吉な予感がして口を閉じました。
「……ゆき乃さん」
と、それを待っていたかのように、琉さんはようやく口を開きました。その呼びかけは叩きつけるような雨の音に邪魔されて、奇妙に聞き取りにくく私の耳に届きました。
「はい……?」
「あなたは、日本の将来を考えたことがありますか?」
「日本の将来?」
こんな時になにを言い出すのかしら、と私は内心首をかしげました。でも、その次の琉さんの言葉には、雨のせいばかりでなく胃の腑が冷たくなるのを感じました。
「これから先、日本がどういう道を歩むのか……列強の真似をして富国強兵に走る日本が、一体どこへ行くのか……ゆき乃さんは考えたことがありますか?」
「……どういう意味なの?」
それは言い方こそ違いましたが、あの時隼人さんがしていたものと同じ話でした。
「日本は力に狂おうとしています。もし『輝夜』の制圧に成功してしまったら、その狂った力をとどめるものは誰もいなくなる。そして『輝夜』の後、日本はどこへその力を向けるのか……止めなくてはならないんです、それだけは」
「……琉さん……」
ああ琉さん、あなたまでまんまと乗せられてしまったなんて……私は絶望的な気持ちでそう思いました。隼人さん、琉さん……『畝傍』に乗っていた人たちは、皆こうやって狂わされてしまっているのでしょうか。
なぜ、そんな風になってしまうのでしょうか。
皆、心配していたのに……。
「あなたもプロメテウスに……琉さん……」
「……それを知っているということは……やっぱり『照らされざる者』だったんですね」
私がもらしたつぶやきに、どこか悲しそうに琉さんは応じてすっと右手を上げました。その手に雷光とも見える光の珠が浮かんだのを眼にした私は、ぎょっとして1歩退きました。
「僕はあなたを倒さなくてはならない……日本のために」
「琉さん!」
「『照らされざる者』は、日本に害をなす」
「琉さん、やめて!」
ざっ……と雨が分かれ、琉さんのそばに妖が現れました。が、素早く身をかわした琉さんは、溜めていた手の中の光をそれに向かって叩きつけます。妖は声にならない咆吼をあげ、現れた時と同じようにふっと消え去りました。
「これはあなたの力ですか?」
琉さんはゆっくりと私のほうを向き、再び手の中に光を浮かべました。
「そうやって魔を呼び、闇を招く……日本に仇なす『照らされざる者』……ゆき乃さんがそうだったなんて……」
「…………」
私はただ、琉さんを見つめるしかありませんでした。恐いのか苦しいのか、腹が立つのかもう分かりません。ただ、自分はもうすぐ死ぬんだと思いながら、琉さんのまっすぐな、それだけに一層悲しく感じられる眼を見つめ続けました。
「……みんな、琉さんを待っていたのよ」
心に浮かんだことを、そのまま私は言いました。
「お父様もばあやも私も……みんな待っていたのよ……お部屋もそのままにして、毎日お掃除して……」
それなのに……そんな風になってしまうなんて……。
にらみあい、というには重すぎる時間が続きました。その間に、空は少し明るくなってきたようでした。まだ雨は激しく降り続けていましたが、もしかすると峠は越えたのかもしれません。
……と、琉さんの表情がかすかに動きました。
光の珠がふっと手の中から消え、そしてまた現れました。琉さんはためらい、そして首をふると思い直したようにぎくしゃくとその珠を私に投げつけようとしましたが……とうとうそこでぴたりと動作が止まりました。
そして……勢いの衰え始めた雨の中、琉さんの顔が苦しげに歪むのを私は見ました。
「……申し訳ありません……」
その言葉が誰に向けてのものか、私にはとうとうわかりませんでした。というのも、次の瞬間5尺ほども跳んで生け垣を越えた琉さんが、あっという間に私に当て身を食らわせてきたからです。とっさのことでよけることもできず、私はまともにそれを受けてしまいました。
……気絶していたのは、それほど長い間ではないようでした。気がついた時、私は庭に倒れていました。ただでなくてもぐしょぬれの上にそんなところに転がっていたせいで、髪も着物も泥だらけのひどい有様になっていましたが、身体には琉さんの上着が……これも濡れそばってほとんど用をなしていなかったものの……かけてありました。
「……琉さん?!」
逃げたのかしらと思いながら、私は立ち上がると大声で呼びました。あたりをすかし見ながら生け垣に近寄り、通りのほうをのぞきます。そして、私の眼は吸い寄せられるように、たちのぼる煙のところで止まりました。
道の端には、今しがたなにかが激しく燃えたような跡がありました。ぬかるんだ道がそこだけ黒く焦げ、色が変わっています。あがっている白い煙は次第に薄くなりながらも、ぴしゃぴしゃと降る雨の中、なおたちのぼり続けていました。
その跡は、丁度人ひとりくらいの大きさに見えました……。
「…………」
私は黙って、琉さんの上着を握りしめました。
黙ったまま、いつまでも握りしめていました。
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