葉月---凶報来ル

「隼人さん……が?」
聞き返す私の声は、我ながらかすれていました。
「……嘘でしょう? 少尉」
「……本当です」
さらに重ねて問うと、畳にきちんと正座した市城叶少尉は沈痛な面持ちで首をふりました。その隣の美純月音さんは、まるで貝になってしまったかのようにひとことも口をきかず、ただじっとうつむいています。
「我々に剣を返した時、プロメテウスの炎が燃え上がって……どうしようもありませんでした……」
「…………」
市城少尉と月音さんが『輝夜』から帰ってきたのは昨日のことです。弥生ちゃんのためにも、隼人さんをなんとか説得しようと、わざわざ危険を冒してかの島に渡っていたのでした。戻ったとの知らせに、私はとるものもとりあえず話を聞こうと飛んでいったんですが……そこで聞いたのは、隼人さんが死んだという言葉でした。
……ふと我に返ると、いつの間にか市城少尉が私を支えていました。気遣わしげにのぞきこむ少尉に「大丈夫です」とようやく答え、私は座り直しました。
「それで……なにか言っていまして? 隼人さんは」
自分の声が遠くから聞こえるような気がしながら、私は言いました。眼の隅に、多分少尉か私がひっくり返したのでしょう、お茶がこぼれているのが見えます。ここの女将さんに後であやまっておかないと、とぼんやり思い、そこで、月音さんの声がするのに気付きました。
「……日本を、と……」
市城少尉に代わって、月音さんは小さな声で答えていました。
「『日本を』とくり返しておられました……最後の、最後まで……」
こらえきれなくなったのか、月音さんは袖で眼を押さえるとそっと嗚咽をもらしました。市城少尉は両のこぶしを握りしめ、眼を真っ赤にして歯をくいしばっています。
そういえばおふたりとも、隼人さんとは浅からぬ縁だったのだと私は改めて思い返しました。市城少尉は兵学校の後輩で、月音さんにとっては隼人さんは好きだった人……その人の無惨な死に様を目の当たりにしなくてはならなかったおふたりの悲しみが、痛いほどこちらには伝わってきました。
「……日本を……」
なのになんで、こんなに落ちついているのかしら、と私は自分を不思議に思いました。なんだか、胸の底を冷たい石でふさがれたようで、涙も出なければ悲しさも感じません。ただ、とりとめもない考えばかりがぽかりぽかりと浮き上がってきます。
「それで……海江田中将は、どうなりました?」
ひときわ大きく浮き上がってきた質問を、私は市城少尉に投げかけました。少尉は無念そうに唇を引き結ぶと、短く「逃げました」とだけ答えました。
「どこへ?」
「多分、『畝傍』へ……そのまま日本を攻撃するつもりでしょう」
「『畝傍』……」
海軍は『畝傍』が敵の手に落ちたことをいまだひた隠しにしています。もっとも、私たち照らされざる者の間では、それは別に秘密でもなんでもないことでしたが。
「……もちろん、そのままにするつもりではありませんわね?」
市城少尉はきっぱりとうなずきました。
「海軍の総力をあげて迎撃します。『畝傍』がある限り『輝夜』も独立の主張を変えないでしょうし、列強も……」
「……そうですわね。列強も来るでしょうね」
――……隼人お兄ちゃまはなんで海軍に入りたいの?――
――決まってる、これからの日本に必要だからさ――
――陸軍じゃいけないの? うちのおとうさまみたいに――
――ああ、仁科の叔父さんには悪いけど、陸軍は所詮、国の中のことしか考えない。世界の中の日本を正しく知るためには、やっぱり海軍なんだ――
子供の頃に交わした話が思い出され、私は眼を閉じました。
……世界の中の日本……。
隼人さん、最後にあなたの眼に見えたのは、どんな日本だったんでしょう……?
「ゆき乃さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
息苦しさを振り払い、私は眼を開きました。
「おふたりにお願いがあります」
「……なんでしょう?」
少尉は首をかしげました。月音さんも、いまだ涙を拭う手を止めて私に顔を向けました。
「弥生ちゃんにはこのこと、黙っていていただけませんか?」
……あからさまに反対こそしなかったものの、おふたりはなにか言いたげでした。それを見た私は急いで言葉を続けました。
「一生なんかじゃありません。少しの間だけです……隼人さんの名誉を、守ってあげたいんです」
方法は間違っていたとはいえ、隼人さんの日本を思う気持ちは心の底からのものでした。そんな隼人さんを、海江田中将や坂田大佐などと一緒に犯罪者の列に並べたくない。そのために、できる限りのことをしたい……私がそう言うと、市城少尉は少し考え、そして分かりましたとうなずきました。
「でも、本当に少しの間だけにしてください。これまでも弥生さんは蚊帳の外に置かれてきました。これ以上は気の毒です」
「分かっています……それと……親族としてお礼を申し上げます。隼人さんと弥生ちゃんのためにいろいろ尽くしてくださって、どうもありがとうございました」
おふたりに向かって、私は深く頭を下げました。
その日、どうやって家へ帰ったのか、私は今でも憶えていません。
何事があったのかと気にするばあやを振り払うように、私は部屋へと閉じこもりました。お茶も食事もいらないと断って、ただなにも考えず、机の前に座っていました。
どのくらいそうやっていたでしょうか。突然、名前を呼ばれて私は振り返りました。
「……お父様? 今日は遅いはずじゃ?」
「ばあやが電話してきてな」
軍装のままのお父様は、部屋に入ってくると畳にあぐらをかきました。
「お前の様子がおかしいとひどく心配していたんで、様子を見に戻ったんだが」
「まあ……ごめんなさい、お父様」
「別にいい。それより、ばあやの言うとおりだな……なにがあったんだね?」
「…………」
私は黙りこんでしまいました。
隼人さんのことを、お父様に話したいのは山々です。ですが……プロメテウスのことはさておくとしても、ここでいろいろ話せば、私が怪しからぬことに関わっているのがお父様に知れてしまいます。
「海江田中将のことかね? ゆき乃」
「……どうしてそれを?!」
口走ってからしまったと思いましたが、今更ごまかすこともできません。口を押さえる私を見ながら、お父様はやっぱりというように苦笑いをしました。
「お前が中牟田の家の縁談に反対して中将のところへ乗り込んでいったことは、お父様の耳にも入っているんだよ。それから、なにやら調べてまわっていたことも」
「お父様、これには訳が……」
「分かってる。お前はそうそう考えなしのことをするたちじゃない。だから、お父様に話を聞かせてくれないか」
何気ない言葉でしたが、私ははっとしてお父様を見やりました。お父様の様子はいつもと変わりありませんでしたが、明かりの加減か、その時ふと急に歳を取ったように見えました。
「お父様、もしかして私……お父様にご迷惑を?」
「いいや」
お父様は気楽な調子で手をふりました。
「お前ひとりのために、わざわざ陸軍まで相手にするほど海江田中将も暇ではないさ。それに、お父様にはお前が思っているより友人が多いんだよ」
……これまで、私は弥生ちゃんと隼人さんを助けることに夢中になってきました。そして、私たちがそんな風にしていることに一向に気付こうとしない弥生ちゃんに、時折歯がゆさに似たものを感じていました。
でも……もしかすると、私が弥生ちゃんにしているのと同じように、お父様は陰で私を助けようとしていたのかもしれません。そして、それに気がつかないでいる私を歯がゆく思っていたかもしれないんです。
「……お父様、ごめんなさい」
私はきちんと正座をすると、お父様に頭を下げました。
「私、自分のことしか考えてませんでした……お話します。私が話せること全部」
「うむ」
お父様はうなずき、いい子だとでもいうように手をのばして私の頭をなでました。18にもなる娘にするような仕草ではありませんでしたが、私は心底ほっとしました。
そして、そのまま泣き出してしまったのでした。
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