長月---秋晴れ

「西洋の船は食事がうまいそうですよ。横浜で俺が乗るのもサラセン号という仏蘭西の船なんです」というのが、広瀬中尉の話でした。
それはともかく、この調子ではそのサラセンとかいう船に行きつけるかどうか……と、昼間からお酒臭い西洋人の人足だか船員だかを追い払おうとしながら、私は思いました。私の着物姿が珍しいのか、見かけは異人なのに言葉の通じない私を面白がったのか、先ほどから2人ばかり、なにか言いながらしきりにつきまとってきます。しかも、つきまとうだけならともかく、時折手をのばして髪や着物に触ってくるのですから、気持ちが悪いことこの上ありません。道行く人に助けを求めようにも、男たちの大きな身体に皆眼をそらしてしまいます。
「……いい加減になさい!」
またのびてきた船員の手を、とうとう私はぴしりと叩きました。これには驚いたようで、男はわずかに身を引きました。が、すぐにまたにやにやと笑って手をのばし、懲りずにまた触ろうとします。今度こそかっとなった私は、ものも言わずにその向こうずねを力一杯蹴り上げました。
「!」
こう見えても私は割と力があります。船員は妙な悲鳴をあげ、蹴られた足を抱えて跳ね回りました。もうひとりの仲間は呆気にとられてその様子を眺めていましたが、この隙に私が逃げようとするとそれに気付いて振り返り、たちまち怒りの形相になって私をつかまえようとします。殺される……そう思って悲鳴をあげた瞬間、誰かが男と私の間に割り込み、男の腕をつかんでいました。
「ひ……広瀬少佐……?」
「ゆき乃さん、こっちへ」
その人の横顔を見て思わず声をあげるのと、横合いから女の人が私を引っ張るのが同時でした。振り返ると、広瀬少佐……広瀬健夫中尉のお兄様……の奥様がうなずいていました。そのまま私は道の端へと引かれていきましたが、ふと見ると広瀬少佐が厳しい調子で船員になにか言っているのが見えました。
……少佐が船員を追い払い、奥様と私のところへやってきたのは、それからいくらもたたないうちでした。ようやく震えの止まった私がお礼を言うと、少佐は広瀬中尉とよく似た笑顔でうなずき、健夫の見送りですかと穏やかに尋ねてきました。
広瀬少佐は、広瀬中尉より7つばかり上で、やっぱり海軍にいらっしゃいます。結納の時に初めてお会いしましたが、とても良いかたでお父様もすっかり気に入っていました。奥様ははきはきしていて……正直、私はちょっぴり苦手ですが……いろいろと頼れるかたのようです。
……もしかすると、とんでもないおてんば娘だと思われたかしらと恥ずかしくなりながら、少佐の問いに私ははいと答えました。異人をひっぱたいたり蹴ったりするなんて、あまり普通の女のやることではありません。
「なら丁度いい、一緒に行きましょう。どうもこのあたりは思ったより物騒なようだ」
「いいえそんな、ご迷惑になりますから……」
「いいんですよ」
私と一緒に歩くと、好奇の眼で見られる……いつもの癖で断ろうとした私を、奥様が明るく笑いとばしました。
「これから長いおつきあいになるのに、なにを気にしてらっしゃるの。それに、いくらゆき乃さんが勇ましいといっても、知らない場所を女がひとりで歩くものじゃありませんよ」
ああ、やっぱりそう思われているわ……私はなんだか、穴があったら入りたいような気分になりました。
私たちが埠頭についたのは、出航時間も間近に迫った頃でした。まだ地上で何人かの人たちに囲まれていた広瀬中尉は、私たちを見つけるとすぐ抜け出してこちらへやってきました。
「途中でお会いしたのだよ。やっぱりお前の見送りだというから、一緒に来てもらった」
おやという顔で私を見る中尉に、広瀬少佐が短く説明しました。
「あ、あの、急にごめんなさい。お渡ししたいものがありまして……」
なんとなくまわりを意識して、私は口ごもってしまいました。そんな私をちらりと見た広瀬少佐は、先ほど広瀬中尉が抜け出してきた人の輪に何気なく眼を向けました。
「健夫、俺は向こうに挨拶してくる。お前はゆき乃さんと話していなさい」
「私もご一緒しますわ、あなた」
「うむ」
私と広瀬中尉がなにか言う間もなく、広瀬少佐はさっさと向こうのほうへ歩き出してしまいました。その後を、心得顔で私のほうへ目配せした奥様がついていきます。ほんの少しの間、私と中尉はぽかんとしてそんなおふたりを見送っていましたが……やがて、広瀬中尉が苦笑いをして首をふりました。
「かなわないな、兄貴夫婦には」
「ごめんなさい、中尉……」
「あやまることはありませんよ。それよりなんですか? 渡したいものとは」
その言葉に、出航まで時間がないことを思い出した私は、あわててふくさに包んだものを取り出しました。
「お守りです。高野山で特別に祈祷していただいたんです。昨日やっと届いたので。それと……」
「?」
「写真を……撮ってみたんです。そのぅ、持っていっていただけると……嬉しいなあと思って……」
本当は、渡すかどうかずっと迷っていたのでした。必要とも思えませんでしたし、いかにも思慮の浅いことのような気がしたからです。
ですから、中尉が私の手から包みを取り上げて懐にしまった時には、本当に嬉しくなりました。
「向こうに着いたら手紙を書きますよ」
ちょっと照れくさそうに、でも元気良く広瀬中尉が言うのに、私はこくりとうなずきました。
「待ってます……お身体に気をつけて」
「ありがとう」
中尉はぴしりと敬礼し、きびすを返しました。背筋をきちんとのばしたその後ろ姿を見送りながら、私は「いってらっしゃいまし」と口の中でつぶやきました。
そして、眼に痛いくらい晴れた空を見上げました。
きっと露国まで続いている空を。
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