ある時、ある街で 〜契約者異聞
「うーむむむ」 クレール・アストリュックはうなりながら足を止めた。右側には見覚えのある建物が立っている。どうやらまたここへ戻ってきてしまったらしい。 「か、完全に迷ってるわねーこりゃ」 近道をしようと変な路地に入ってしまってから30分。もう何回この建物の前を通っただろうか。方向音痴ではないはずなのだが、やはり土地勘がないというのは致命的だった。 「……やっぱり夜に知らない街を歩くもんじゃないわね」 しみじみと彼女は嘆息する。 「大体、なんであたしがわざわざイギリスくんだりまでこなくちゃならないのよ。いっくら任務とはいえ納得いかないわ……きっとあのおっさん、自分が来るのが嫌だったものだからあたしに押しつけたのよ」 直属のコマンダーの顔を思い浮かべながら、ひとしきりクレールは毒づいた。そして気が済んだところであたりを見回し、またとことこと歩きだす。とりあえず止まっていてもしょうがない。迷宮に迷いこんだわけでもあるまいし、歩いていれば絶対どこかに出るはずだと結論したのである。 ところが……。 「よおおじょーちゃん、こんな夜中になにやってんの」 どきりとして彼女は顔をあげた。いつの間に現れたのだろうか、いかにもちんぴら風の男が3人、クレールを囲むように一緒に歩いている。 「さっきから見てると、何度も行ったり来たりしてるみたいだけどさー。もしかして迷ってるの?」 不健康そうな、それでいて眼だけはぎらぎらさせたちんぴらAが、なれなれしく彼女に顔を近づけた。その酒臭さにクレールはげっと思い、あわてて後ろにあとずさる。 「いえ、ああああの別に迷ってるわけじゃないです。おかまいなく。自分で帰れますから」 「なぁんだやっぱり迷ってるんじゃん。いいよ遠慮するなよ、俺たちが連れてってやるからさ」 声にまでにやにや笑いを浮かべながら、3人はなおも下がろうとする彼女の腕をつかんだ。そのまま半ばひきずるようにして歩きだす。 「ど、どこへ連れてくのよ」 クレールは腕を振り回したが、男たちは離さなかった。ちんぴらBがよだれが出そうな調子で応じる。 「まあまあ、いいから。楽しいことしようぜ」 冗談じゃない、と彼女は思った。 「……どうせ楽しいのはあんたたちだけでしょーが」 「そぉんなことないぜ。あんただってたまんねーよきっと」 「…………」 これはどうやら、ことは穏便に済まないようである。クレールは覚悟を決め、精一杯声を低めた。 「やめないとひどい目にあわせるわよ」 「無理無理、騒いだって誰もきやしねーよ」 「……警告はしたんだからね」 瞬間、ぐえっと妙な叫びをあげたちんぴらAが、股間を押さえてうずくまった。蹴り上げた反動のままクレールは後ろに跳びすさり、壁を背にして構える。 「なにしやがる!」 「言ったでしょ、ひどい目にあわせるって!」 「こ、このガキ!」 「失礼ね! あたしもう25よ!」 「うるせぇ!」 ちんぴらBがとびかかってくる。クレールは素早く身をかわし、勢い余ってたたらを踏んだ彼の髪……脂ぎっていてちょっと嫌だったが……をつかむと前の壁にうちつけた。ごつっと派手な音がして、ちんぴらBもずるずると石畳に沈む。 「ふん!」 ひとこと吐き捨てて彼女は振り返り、残されたちんぴらCをにらつけた。 「あんたもこうなりたくなかったら、とっととどっかへ行っちゃいなさい!」 「こ、この……」 獲物だと思っていた小娘に突然仲間ふたりをのされて、ちんぴらCの頭の中では何かがぷつっと切れたようだった。突然、獣じみたうめき声と共に、彼はナイフを取り出した。 「おとなしくしやがれこのガキ!」 「ガキじゃないって言ってんでしょ! あんたボキャブラリーが貧困よ!」 「うるせぇ!」 「それもさっき聞いた!」 「黙れ!」 ちんぴらCはナイフを振り上げる。返り討ちにしてくれようとクレールが身構えた。一瞬の間の後、ちんぴらCが1、2歩踏み出しかけた時……低い制止の声と共に彼の腕をつかんだ者があった。 「やめろ」 男の声だった。淡々としてはいたが、なんとなしに凄味がある。ちんぴらCもそれを感じ取ったのか、腕をつかまれたままびくりと硬直した。 「…………」 ようやく入った助け船に、クレールはいささかほっとして力を抜いた。男はそんな彼女を見やり、早く行けとあごで示す。クレールはこくりとうなずくとそれに従おうとした。 だがその時である。 不意にちんぴらCが動いた。つかまれた腕を強引にふりほどき、くるりと振り返るとナイフを構えて男に体当たりしたのである。一瞬ふたりの影が重なり、よろめく男の胸から夜目にも赤い血が吹き出した。 「!」 クレールは悲鳴をあげた……つもりだったが、実際に出たのはかすれた声だけだった。そして次の瞬間彼女は飛び出し、逃げようとするちんぴらCをむんずと捕まえると、あっという間に投げ技をかけていた。まともに石畳に叩きつけられた彼は、白目を向いて失神する。 「だ、大丈夫ですか!」 転がるちんぴらCを飛び越え、クレールは胸を押さえてうずくまる男のそばへ駆け寄った。すでに着ているTシャツは真っ赤に染まっている。口からも血を吐いている所を見ると、傷は肺にまで達しているかもしれない。 「ど、どどどうしよう……とにかく人を呼んできますから、動かないで……」 だが、男はひとつ首をふると、おろおろする彼女を押しのけるようにして立ち上がった。口元の血を手でぬぐい、ゆっくりと歩こうとする。 「ちょっと!」 仰天したクレールは、男の前に立ちふさがった。 「なにすんのよ一体!」 「大丈夫だ……構わないでくれ」 「構わないでくれって、放っとけるわけないでしょそんな怪我!」 「この程度、怪我のうちに入らん」 「なに言ってんのよ、そんな……!」 自分の脇をすり抜けようとする男の腕を彼女はつかんだ。はずみで彼の腕が動き、押さえていた傷口があらわになる。はっとしてそちらに眼を向けたクレールは、だがそこで思わずぽかんと口を開けた。 裂けたTシャツの奥に見える傷口は、すでに血が止まっていた。そしてその傷がクレールの見ている前で、まるでうごめくようにしてみるみるうちにふさがっていくのである。呆気に取られた彼女が眺めるうちに、男の胸に残っているのはただの傷跡だけになってしまった。 「……えーと……」 これってどういう現象なのかしら、とクレールは首をひねった。問いかけようとして見上げると、切れ長の鋭い眼とぶつかる。どうやら説明してくれそうな眼ではない。それどころか、何か言える雰囲気でもなかった。言ったらあのちんぴらたちよりヤバいことになりそうな、そんな張り詰めた緊張感が彼の瞳にはあった。 と、男は無言でついと視線をそらすと、再び彼女を押しのけるようにして歩きだした。 「あ、ちょっと」 あわててクレールは後を追ったが、彼は答えない。それどころか、逃げるように足を早める。 「待ってよ、ねえ」 「…………」 「ちょっと待ってってば……」 「…………」 「待ってって言ってんでしょーがっ!」 いらついたクレールは、唐突に男にタックルする。さすがにこれは予想していなかったらしく、彼はしがみついたクレールもろとも真正面から地面につっこんだ。顔面を押さえて起き上がる男に向かって、彼女は言った。 「……ここから出る道教えてくれない?」 「……助かったわ、どうもありがとう」 明るい街灯の下で、クレールはぴょこんと頭を下げた。男は長めの髪をふっていや、と言う。ジャンパーの前を合わせるようにして立つその姿は、ついさっき刺されて大怪我をした人間とは(そしてあっという間に直ってしまった人間とは)思えなかった。少し心配になった彼女はもういちど聞いてみる。 「あの……さっきの怪我、本当に大丈夫?」 とたんに男の眼が鋭くなるのを見て、しまったとクレールは思った。どうもこれはあまり触れてほしくない話題らしい。まあ確かに、特異体質で済ますにはアレは怪しすぎる。いろいろ人に言えない事情があるのだろう。 彼女のそんな思いをよそに、男は顔をそむけて歩き出した。 「あ、ねえ」 クレールが呼びかけると、やや警戒するように立ち止まって振り返る。またタックルでもかけられるかと思ったらしい。そんな男に彼女は問いかけた。 「あたしクレール、あなたは?」 その問いに、数秒の間彼は逡巡する。 「……アルベルト」 「安心してアルベルト、あたし口は固いんだから」 手をぱたぱたふりながらそう言うと、男は一瞬虚をつかれた表情をし、次に苦笑いをした。そして小さく手を上げると、そのままきびすを返して足早に歩き去っていった。 ![]()
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